量子力学が書き換える物理的可能性:自由意志における代替的可能性の再考
決定論と自由意志の問題は、哲学の長い歴史を通じて議論されてきたテーマです。特に、物理学が自然界の法則を記述する上で重要な役割を果たすにつれて、物理学における世界の記述が自由意志の可能性にどのような影響を与えるかが問われてきました。古典物理学、特にニュートン力学に基づく世界観は、厳密な因果律に基づいた決定論的なものであり、未来は現在の状態によって一意に決定されると考えられてきました。この決定論的世界観は、自由意志における「代替的可能性(Alternative Possibilities)」、すなわち「別の選択肢を選びえた」という直観と深刻な対立を引き起こします。
しかし、20世紀初頭に登場した量子力学は、物理学における世界の記述に非決定論的な要素を導入しました。これにより、「物理法則は完全に決定論的である」という前提が揺らぎ、自由意志論の議論に新たな可能性が開かれたと考えられています。本稿では、この量子力学が提示する物理的可能性の概念が、古典的な決定論的世界観におけるそれとどのように異なり、それが自由意志論における代替的可能性の概念にどのような示唆を与えるのかを考察します。
古典物理学における「可能性」概念
古典物理学において、系の状態はその初期条件と運動方程式によって完全に記述されます。例えば、ある瞬間の物体の位置と運動量が正確に分かれば、その後のすべての時刻における位置と運動量を正確に予測することが原理的には可能です。これは、古典物理学が決定論的であるという性質を示しています。
このような決定論的な世界観において、「可能性」という概念は限定的な意味しか持ちません。物理的に可能な未来は、現在の状態から因果的に導かれる唯一の未来のみです。もちろん、我々が現実世界で経験する不確実性や多様な選択肢は、初期条件に関する知識の不足や、計算能力の限界に起因すると考えられます。しかし、これは認識論的な不確実性であり、存在論的な不確実性ではありません。つまり、世界そのものは決定論的に進行しており、我々の認識が追いつかないだけである、という立場です。この観点から見ると、ある瞬間に私がリンゴを取るかミカンを取るかを選択しているとしても、その選択は過去の物理状態によって決定されており、別の選択をする物理的な可能性は存在しなかった、ということになります。自由意志論における代替的可能性、すなわち「もし私が別の選択肢を選ぼうと欲していれば、実際に別の選択肢を選ぶことが物理的に可能であった」という考えは、この古典的決定論とは相容れません。
量子力学が提示する新たな「可能性」
量子力学は、微視的な世界の記述において、古典物理学とは根本的に異なるアプローチをとります。量子系の状態は、複数の可能な状態が重ね合わさった重ね合わせ(Superposition)の状態として記述されます。例えば、電子はある瞬間に特定の場所に「存在する」のではなく、複数の場所に「存在する可能性」が同時に重ね合わさった状態にあると表現されます。
この重ね合わせの状態は、観測を行うことによって崩壊し、系は重ね合わされていた状態の一つに収縮します。この観測による収縮の過程は、通常、確率的に記述されます。例えば、ある電子が2つの可能な位置AとBの重ね合わせ状態にあるとき、観測によってAで検出されるかBで検出されるかは確率によって決まり、観測前にどちらになるかを決定論的に予測することは原理的に不可能です。これは、量子力学が非決定論的な要素を持つことを示しています。
この非決定論性は、物理的な「可能性」の概念を根本的に拡張します。古典物理学では、物理的に可能な未来はただ一つでしたが、量子力学では、現在の状態から複数の異なる未来の状態が物理的に可能であると解釈される余地が生まれます。観測という行為は、これらの可能な未来の中から一つが現実化するプロセスであるとも捉えられます。
量子力学の様々な解釈(コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など)によって、この「可能性」や非決定論性の捉え方は異なります。例えば、コペンハーゲン解釈では観測による状態の収縮を基本的なプロセスと見なし、確率を存在論的なものと捉える傾向があります。一方、多世界解釈では重ね合わせ状態は収縮せず、観測によって宇宙全体が可能性のある結果の数だけ分岐すると考えます。ここでは、全ての可能性が現実化する別の世界が存在すると解釈され、「現実」の概念そのものが多層的になります。ボーム解釈のような隠れた変数理論は、量子論的な確率性を見かけのものとし、根底には決定論的な構造を想定しますが、それでも非局所性といった古典物理学にはない概念を導入します。これらの解釈のどれを採用するかによって、量子論における「物理的可能性」の具体的なイメージは変わってきますが、いずれにせよ、古典物理学のような単一の決定された未来という像は揺るがされます。
量子力学と自由意志における代替的可能性
量子力学が提示する物理的な非決定論性は、自由意志論における代替的可能性の議論に新たな視点を提供します。古典的決定論の下では、私の現在の選択は過去の物理状態によって一意に決定されるため、別の選択肢を選ぶ物理的な可能性は存在しませんでした。しかし、もし私たちの意思決定のプロセスが量子的な非決定性に影響を受けているとすれば、文字通り「別の選択肢が物理的に可能であった」という状況が存在しうるかもしれません。
例えば、脳内の神経活動や細胞内の生化学的プロセスが、本質的に量子的なゆらぎ(例えば、イオンチャネルの開閉における量子トンネル効果など)を含んでおり、そのゆらぎが巨視的な神経回路網の振る舞いや最終的な意思決定に影響を与える可能性が考えられます。もしある意思決定の瞬間に、量子的な非決定性によってAという行動をとる確率とBという行動をとる確率が両方ともゼロでないとすれば、観測(あるいは意識的な経験)によってどちらかの行動が現実化する、という構図は、自由意志による選択と形式的に類似しているように見えます。
しかし、この考え方には重要な課題があります。第一に、量子的な非決定性が脳のような複雑な巨視的システムにどのような影響を与えるかは明らかではありません。量子的なゆらぎは通常非常に小さく、デコヒーレンスによってすぐに失われるため、巨視的なレベルの意思決定に意味のある影響を与えるためには、特別な増幅メカニズムが必要となるかもしれません。脳科学の進展は、この点に関する知見を深めることが期待されますが、現状では推測の域を出ません。
第二に、仮に量子的な非決定性が意思決定に影響を与え、物理的な意味での代替的可能性を保証したとしても、それがそのまま哲学的な意味での「自由意志」につながるわけではありません。自由意志は単なる偶然やランダムな出来事とは区別されるべき概念です。量子的なランダム性が私の行動を決定するのであれば、それは私の「制御」の範囲外であり、むしろ自由意志を損なうとさえ考えられます(ランダム性の問題)。真の自由意志には、代替的可能性だけでなく、自己決定や制御といった要素も不可欠であると考えられています。量子的な非決定論がどのようにして、単なる偶然ではなく、自己による制御された選択を可能にするのかという問題は、未解決の大きな哲学的課題です。
議論の現状と今後の展望
量子力学の非決定論が自由意志に与える影響についての議論は、哲学者と物理学者の間で活発に行われています。多くの哲学者、特に非両立論者(Incompatibilist)の中には、量子力学の非決定論性が自由意志を擁護する可能性に期待を寄せる人々がいます。一方で、量子論的な非決定論が巨視的なスケールでの人間の行動に影響を与えるという主張には、懐疑的な見方も強く存在します。また、両立論者(Compatibilist)は、決定論と自由意志は両立可能であると主張するため、物理学が決定論的か非決定論的かに関わらず、自由意志の存在を認めうると考えます。
量子力学は、物理学における「可能性」の概念を古典物理学のそれとは根本的に異なるものに変えました。単一に決定された未来ではなく、複数の物理的に可能な未来が存在するという量子的な世界の記述は、自由意志論における代替的可能性の議論に新たな物理的な基盤を提供する可能性を秘めています。しかし、この物理的な可能性が、いかにして哲学的な意味での自由な選択、すなわち自己による制御を伴う選択へと繋がるのか、そのメカニズムは依然として大きな謎です。脳における量子効果の役割、量子論的なランダム性と制御の関係、そして哲学における可能性概念と物理学における可能性概念の厳密な結びつきなど、多くの学際的な研究課題が残されています。
量子力学は、決定論vs自由意志という古くて新しい問題に対して、物理的なレベルから新たな光を投げかけています。物理学と哲学の対話は、この複雑な問題の理解を深める上で不可欠であり、今後の研究の進展が待たれます。
結論
量子力学は、物理的世界における「可能性」の概念を古典物理学の決定論的記述から解放し、複数の未来が物理的に可能であるという新たな視点を提供しました。この量子論的な可能性は、自由意志論における代替的可能性の議論にとって興味深い物理的な基盤となりうる一方で、それがどのように人間の意識的な選択や制御と結びつくのかという根本的な問題は未解決のままです。量子力学は自由意志の謎を完全に解き明かすものではありませんが、古典的な決定論的世界観の下では考えられなかった新たな可能性の地平を切り開き、哲学と物理学の深い対話を促しています。この学際的な探求は、人間の存在と宇宙の法則に関する我々の理解をさらに深めていくことでしょう。