量子力学の主要な解釈は自由意志の可能性をどう位置づけるか?:コペンハーゲン、多世界、ボーム解釈の比較
はじめに:物理的世界観と自由意志の古くて新しい対話
哲学における自由意志の問題は、古来より人間の自己理解の根幹に関わる問いとして議論されてきました。特に、世界が物理的な法則によって完全に決定されていると見なされる決定論的世界観は、私たちの選択や行動が事前に決まっているのではないかという深刻な疑問を投げかけます。古典物理学、特にニュートン力学が世界の決定論的な描像を強化した時代を経て、20世紀初頭に登場した量子力学は、この決定論的な物理的世界観に大きな変革をもたらしました。
量子力学の登場は、物理システムが必ずしも決定論的に振る舞わない可能性を示唆し、自由意志論に新たな局面をもたらすかのように見えました。しかし、量子力学自体も、その数学的記述が何を表しているのか、測定がもたらす確率的な結果をどう解釈すべきかについて、複数の異なる「解釈」が存在します。これらの解釈は、物理的な実在、因果関係、そして確率の性質について異なる見方を提供しており、それぞれが自由意志の可能性や性質について、 subtly 異なる示唆を与えていると考えられます。本稿では、量子力学における主要な解釈、すなわちコペンハーゲン解釈、多世界解釈、そしてボーム解釈に焦点を当て、それらが自由意志の議論にどのような光を当てるのかを比較考察いたします。
決定論的世界観の確立と自由意志への挑戦
物理学における決定論の考え方は、物体の未来の状態が、その現在の状態と運動法則によって一意に決定されるというものです。ニュートン力学の成功は、この考え方を宇宙全体に拡張する強力な根拠となりました。有名なラプラスのデーモンは、宇宙の全ての粒子の位置と運動量を把握すれば、未来のあらゆる出来事を完全に予測できるという思考実験として、決定論的な世界の究極の姿を描き出しました。
このような古典的な決定論的世界観の下では、人間の思考や行動を含む全ての物理的なプロセスは、究極的には初期条件と物理法則によって決定されていることになります。私たちの「選択」もまた、脳という物理システムの電気化学的な状態によって決定される現象に過ぎない、ということになります。これは、私たちが自らの意思に基づいて行動を自由に選択できるという直感的な「自由意志」の感覚と真っ向から対立します。
哲学における自由意志論は、この決定論と自由意志の対立を巡って、主に二つの立場に分かれます。一つは、決定論が真であれば自由意志は存在しないとする「非両立可能性論(Incompatibilism)」です。非両立可能性論者はさらに、決定論が真であり自由意志は存在しないと主張する「ハード決定論」と、決定論は真ではないか、あるいは決定論が真であるとしても自由意志は存在すると主張する「自由意志論(Libertarianism)」に分かれます。もう一つは、決定論が真であっても自由意志は存在しうるとする「両立可能性論(Compatibilism)」です。両立可能性論は、自由意志を「制約や強制からの解放」や「自己の欲求や理性に基づいた行為」といった別の形で定義することで、決定論との共存を図ります。
量子力学が登場する以前、この議論は主に決定論が真かどうかという形而上学的な問いと、自由意志の概念をどう定義するかという概念的な分析を中心に展開されていました。
量子力学の導入と非決定論の可能性
20世紀に入り、原子や素粒子の世界の記述において、古典物理学が破綻をきたしました。光電効果や黒体輻射の問題を解決するためにプランクやアインシュタインによって導入された量子仮説、そしてボーアの原子模型を経て、シュレーディンガー方程式やハイゼンベルクの運動方程式といった現代的な量子力学の定式化が完成されました。
量子力学の最も革新的な特徴の一つは、システムの未来の状態を確定的に記述する代わりに、様々な可能な状態の確率的な振幅として記述する点にあります。シュレーディンガー方程式は、システムの波動関数(状態ベクトルとも呼ばれます)の時間発展を記述しますが、これは決定論的な方程式です。しかし、実際に物理量を「測定」する際には、波動関数が収縮(崩壊)し、測定可能な結果のいずれか一つが確率的に実現すると考えられています。例えば、電子の位置を測定しようとすると、波動関数が空間的に広がっていても、測定結果は特定の一点になります。そして、次にいつ、どこで測定しても同じ位置が観測されるとは限りません。
この「波動関数の収縮」に伴う確率的な結果が、量子力学における非決定論の源泉と見なされることがしばしばあります。もし、物理的な世界の根幹に真の確率性、すなわち事前に決定されていないランダムな事象が存在するのであれば、それは古典的な決定論を覆し、自由意志の可能性に道を開くのではないか、という期待が生まれました。
しかし、量子力学が示す確率性は、自由意志の議論を単純化するものではありません。なぜなら、多くの場合、自由意志は単なるランダムな振る舞いとは区別されるからです。意志による選択は、無作為な出来事ではなく、自己の理由や意図に基づいた行為であると見なされることが一般的です。量子的なランダム性が、いかにして意図に基づいた選択に結びつくのかという、いわゆる「ランダム性と意志のギャップ」の問題が生じます。
さらに、前述のように、量子力学の数学的な記述そのものに対して、物理的な実在や確率の意味をどう解釈すべきか、複数の異なる立場が存在します。これらの解釈の違いは、量子的な非決定論の性質やそれが自由意志に与える示唆について、多様な視点を提供しています。
量子力学の主要な解釈と自由意志への示唆
量子力学の最も基本的なレベルでの解釈の違いは、波動関数が物理的な実在をどのように表現しているのか、そして測定プロセスが物理的に何を意味するのかという点に集約されます。以下に、主要な解釈とその自由意志への示唆について概観します。
1. コペンハーゲン解釈
コペンハーゲン解釈は、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクらによって提唱された、量子力学の最も標準的な解釈の一つです。この解釈では、量子システムは測定が行われるまでは波動関数によって記述される複数の可能な状態の重ね合わせにありますが、測定によって波動関数が特定の固有状態に収縮し、その状態に対応する物理量が確定的な値をとると考えます。この収縮は確率的であり、測定結果はBorn則によって与えられる確率に従います。
コペンハーゲン解釈における波動関数の収縮は、しばしば非決定論的なプロセスと見なされます。測定の瞬間にどの結果が出るかは、たとえシステムの過去の状態が完全にわかっていても、確率的にしか予測できません。もしこの確率的な出来事が物理的な世界の根幹に内在するものであるならば、ラプラス的な決定論は成り立たず、少なくとも物理的なレベルでの非決定性が保証されることになります。
この非決定性は自由意志にとって希望のように見えるかもしれません。しかし、前述の通り、コペンハーゲン解釈における非決定性は、基本的にランダムな確率過程として記述されます。もし自由意志がこの物理的なランダム性に基づくとすれば、それは私たちの行動が無作為に決定されることを意味するのでしょうか。多くの哲学者や科学者は、このようなランダム性はむしろ責任や理性に基づいた自由な選択とは相容れないと考えます。自由意志は、私たちの意図や価値観、理屈といったものに根ざしているべきであり、単なる確率的な揺らぎとは異なる次元にあると主張されることが多いのです。
また、コペンハーゲン解釈は「観測者の役割」についても議論を呼びます。観測行為が波動関数を収縮させるとすると、意識を持つ存在である観測者が物理的な現実に影響を与えているかのような示唆を与えかねません。これは、心と物質の関係という哲学的問題にもつながり、自由意志を持つ存在である人間が、自らの観測によって物理的な現実、ひいては未来の可能性に影響を与えているのではないか、という spéculatif な議論を引き起こすことがあります。しかし、現代の物理学においては、「測定」は必ずしも意識を持つ観測者を必要とせず、巨視的な装置との相互作用によっても記述されると考えられており、この点は慎重な検討が必要です。
2. 多世界解釈 (Many-Worlds Interpretation, MWI)
多世界解釈は、ヒュー・エヴェレット3世によって提案された解釈で、波動関数の収縮を否定します。代わりに、測定が行われるたびに、波動関数が記述する全ての可能な結果が実現し、それぞれが独立した平行宇宙(世界)で発生すると考えます。例えば、電子のスピンを測定したときに「上向き」と「下向き」のどちらかの結果が得られる場合、多世界解釈によれば、測定を行うシステム(測定装置、観測者を含む)は「スピン上向きを見た私」がいる世界と「スピン下向きを見た私」がいる世界に分岐します。
多世界解釈は、シュレーディンガー方程式の決定論的な時間発展を宇宙全体に適用し続けます。つまり、宇宙全体の波動関数は完全に決定論的に発展しており、そこにはいかなる真のランダム性も存在しません。私たちが経験する「確率」や「非決定性」は、自分がどの世界にいるかを知らないことによる主観的なものに過ぎないと解釈されます。
この解釈における自由意志の可能性はどのように位置づけられるでしょうか。個々の世界の中で見れば、物理法則は決定論的に働いているように見えます。ある世界におけるあなたの行動は、その世界の初期条件と物理法則によって決定されているかのようです。しかし、多世界解釈では、あなたが「どのような自分になるか」という可能性が、無限とも言える数の世界にわたって全て実現していると考えることもできます。
例えば、ある決断を下す際にAとBの選択肢があるとして、一方を選んだ世界と、もう一方を選んだ世界の両方が存在するとします。古典的な決定論では、あなたはどちらか一方を選ぶ運命にあり、自由意志はありません。コペンハーゲン解釈のランダム性では、どちらを選ぶかは確率的に決まります。多世界解釈では、「Aを選んだあなた」と「Bを選んだあなた」の両方が異なる世界で「自由な選択」を行ったという経験をしています。
この解釈は、自由意志を経験的な感覚や自己のアイデンティティと結びつけて考える場合に興味深い示唆を与えますが、同時に哲学的な困難も伴います。それぞれの世界における私は、自分の行動がその世界の物理法則によって決定されていると感じるかもしれません。また、どの「私」が「本当の私」なのか、あるいは「私」とは何かといった、アイデンティティの問題も生じます。多世界解釈は物理的な非決定性を排除しますが、代わりに無数の決定論的な世界の集合体という、自由意志にとっては必ずしも直感的ではない描像を提供します。
3. ボーム解釈(ド・ブロイ=ボーム理論)
ボーム解釈は、デヴィッド・ボームによって発展させられた量子力学の解釈で、「隠れた変数理論」の一つと見なされることがあります。この解釈では、量子システムは波動関数(「ガイド波」と呼ばれる)だけでなく、常に確定した位置を持つ粒子によって記述されます。波動関数は空間全体に広がりますが、それは単に粒子の可能な軌道に対する確率的な重みを与えるものではなく、粒子の実際の運動を決定する「ガイド」として機能すると考えます。
ボーム解釈は、本質的には決定論的な理論です。粒子の初期位置と初期運動量、そして波動関数が与えられれば、粒子の未来の軌道は完全に決定されます。波動関数自体もシュレーディンガー方程式に従って決定論的に時間発展します。測定結果が確率的に見えるのは、私たちが粒子の初期位置や初期運動量を正確に知ることができないという「知識の不足」によるものだと解釈されます。
この解釈は、量子力学の非決定性が見かけ上のものに過ぎず、その根底には古典物理学と同様の決定論が潜んでいる可能性を示唆します。もしボーム解釈が世界の真の姿であるならば、私たちの行動を決定する脳内の粒子の運動もまた、初期条件とボーム力学の法則によって完全に決定されていることになります。これは、古典的な決定論が自由意志に突きつける挑戦と非常に似た状況を再現することになります。
ボーム解釈は、コペンハーゲン解釈の確率的な収縮や多世界解釈の無数の平行世界といった、直感に反する要素を排除する点で物理学者によっては好まれますが、自由意志論の観点からは、決定論的な物理的世界観を維持することになり、自由意志の可能性を擁護する立場からは困難を伴う解釈と言えます。ただし、ボーム解釈における決定論は古典的な局所決定論ではなく、量子的な非局所性(エンタングルメントなど、離れた場所の粒子が瞬時に相関を示す性質)を含むため、その哲学的含意は古典決定論とは完全に同一ではありません。非局所性が自由意志に何らかの新たな可能性をもたらすかについては、さらに深い考察が必要です。
まとめ:量子力学の解釈は自由意志論に何をもたらしたか?
量子力学の出現は、古典的な決定論的世界観に根本的な問いを投げかけ、自由意志論に新たな議論の余地を与えました。しかし、量子力学自体が単一の明確な非決定論的描像を提供しているわけではなく、その異なる解釈が自由意志という哲学的な概念に対して多様な示唆を与えていることがわかります。
- コペンハーゲン解釈は、測定に伴う確率的な波動関数の収縮を非決定性の源泉と見なすことで、少なくとも物理的なレベルでの決定論を否定する可能性を示唆します。しかし、このランダム性がどのようにして理性に基づいた自由意志に結びつくのかという問題は未解決のままです。
- 多世界解釈は、宇宙全体の波動関数を決定論的に発展させ、非決定性を主観的なものと見なします。これは、物理的な決定論と経験としての「選択」や「自由」の感覚をどう両立させるかという新たな問いを提起します。
- ボーム解釈は、量子力学を決定論的な理論として再解釈し、非決定性を見かけ上のものとします。この解釈は、古典的な決定論が自由意志に突きつける挑戦と似た状況を提示しますが、量子的な非局所性といった要素が議論を複雑にします。
これらの解釈はそれぞれ、物理的な現実の性質、因果関係、確率といった形而上学的な問いに異なる回答を与えており、それがそのまま自由意志の定義や存在可能性に関する哲学的な立場(両立可能性論や非両立可能性論)に対する異なる親和性につながります。例えば、コペンハーゲン解釈のランダム性を真の非決定性と見なす立場は、自由意志論(Incompatibilist Libertarianism)にとって利用可能な物理的スペースを提供するかもしれません。一方、多世界解釈やボーム解釈の決定論的な側面は、ハード決定論を強化するか、あるいは両立可能性論による新たな自由意志の定義を必要とするかもしれません。
量子力学は、自由意志の存在を直接的に証明するものではありません。しかし、それは物理的な世界の基礎が必ずしもラプラス的な決定論に従うとは限らないことを示唆し、自由意志を巡る哲学的議論に新たな物理学的な視点をもたらしました。どの量子力学の解釈が真であるか、そしてその解釈が自由意志という人間の経験の奥深い側面にどう関わるのかは、物理学、哲学、そして恐らくは神経科学が連携して探求すべき、現代科学と哲学における最も挑戦的な問題の一つであり続けるでしょう。この探求は、私たち自身の存在と宇宙における位置づけについての理解を深める上で、極めて重要な意味を持っています。