決定論vs量子論

物理的予測可能性の変遷が自由意志論に与える影響:決定論と量子論の視点から

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自由意志の存在を巡る議論は、古来より哲学の重要なテーマであり続けています。この議論は、私たちが自己の行為を自らの意志に基づいて主体的に選択し、決定する能力を持っているかという問いに集約されます。そして、この問いは、しばしば世界の根源的なあり方、すなわち物理法則がどのように振る舞うかという点と深く結びついてきました。特に、物理系が未来の状態をどれだけ正確に「予測可能」であるかという性質は、自由意志の可能性を論じる上で決定論と非決定論という二つの立場を生み出す基盤となってきました。

本稿では、古典物理学が前提とした予測可能性の世界観と、量子力学が提示した根本的な非予測可能性の世界観が、それぞれ自由意志論にどのような示唆を与え、どのような哲学的課題を提起しているのかを考察いたします。物理的な世界の記述が変化する中で、自由意志という概念はどのように位置づけ直されるべきかを探求します。

古典物理学における予測可能性と決定論的世界観

17世紀に確立されたニュートン力学に代表される古典物理学は、決定論的世界観の強力な根拠となりました。古典物理学において、ある瞬間の系のすべての物理的な情報(例えば、粒子の位置と運動量)が完全にわかっていれば、物理法則(運動方程式)を用いて、その系の未来のいかなる時点の状態も原理的に完全に計算し予測することが可能です。

この「初期条件からの完全な予測可能性」という性質は、物理的な因果関係が厳密であり、原因が結果を一意的に決定するという考え方を強く支持します。未来は過去と現在の物理的な状態によってあらかじめ定められている、という決定論(Determinism)の立場は、このような古典物理学の成功から導かれました。ラプラスの悪魔に代表されるように、もし宇宙のあらゆる粒子の状態を知る知性が存在するならば、その知性は宇宙の未来全てを完璧に予測できる、と考えられました。

このような決定論的世界観においては、人間の行為もまた物理的な過程の一部であるならば、脳の状態や外部からの刺激といった初期条件によって完全に決定されていると考えられます。したがって、私たちが何かを選択したり決定したりする行為は、あらかじめ定められた物理的な因果連鎖の結果に過ぎず、自己の意志による真の選択、つまり「他のようにも行動できた」という自由な代替可能性(alternative possibilities)は存在しない、ということになります。自由意志は幻想である、あるいは少なくとも古典的な意味での代替可能性に基づいた自由意志は存在しない、という強い非両立可能性論(Incompatibilism)がここから導かれる可能性があります。

量子力学における予測可能性の変容と非決定論

20世紀初頭に登場した量子力学は、古典物理学が前提としていた予測可能性の概念に根本的な変革をもたらしました。量子力学において、粒子の位置と運動量を同時に正確に知ることは原理的に不可能であり(不確定性原理)、系の未来の状態を古典論のように完全に予測することはできません。量子的な現象の記述は、本質的に確率的になります。

例えば、放射性原子がいつ崩壊するか、光子が半透鏡を通過するか反射するかといった個々の事象は、決定論的には予測できません。シュレーディンガー方程式は系の波動関数の時間発展を記述し、これは決定論的な側面を持ちますが、実際に観測が行われた際に系がどの状態に収縮するかは、確率的にしか予測できません。これは、量子力学が単に私たちの知識の限界を示すのではなく、物理的なプロセスそのものが根源的に非決定論的(Indeterministic)であることを示唆していると広く解釈されています(コペンハーゲン解釈など)。

この量子力学的な非決定論の導入は、自由意志論に新たな展望をもたらしました。未来が過去と現在の状態によって完全に決定されているわけではないならば、少なくとも物理的な決定論によって自由意志が否定される論理的な鎖は断ち切られる可能性があるからです。世界の物理的な成り立ちが非決定論的であるならば、「他のようにも行動できた」という代替可能性の余地が物理的なレベルに存在しうる、と考えられるようになったのです。これは、決定論と自由意志は両立しないとする非両立可能性論者にとっては、自由意志擁護の物理的な根拠となりうるように見えました。

物理的予測可能性の変遷が自由意志論に与える示唆

量子力学における予測可能性の変容、すなわち決定論からの脱却が自由意志論に与える示唆は多岐にわたります。

第一に、量子的な非決定性が未来に対する「開かれた可能性」の扉を開くことです。古典物理学の描く一本道のような未来像に対し、量子力学は複数の可能な未来が確率的に存在しうることを示唆します。これは、自由意志論がしばしば前提とする「代替的な選択肢の存在」という概念と表面上は整合するように見えます。

しかしながら、ここには重要な哲学的課題が存在します。量子力学の非決定性が単なる根源的なランダム性であるならば、私たちの行為がランダムに、あるいは確率的に決まることが、果たして「自己の意志による自由な選択」と言えるのか、という問題です。自由意志論においては、単なるランダム性ではなく、行為主体(エージェント)による「制御」(control)や「理性による選択」といった要素が重要視されます。もし量子的な非決定性がランダムなノイズに過ぎないならば、それは私たちの行為を因果的に決定しない代わりに、単なる偶然に委ねるだけであり、自由意志とはむしろ対立するものとなる可能性があります。これは、量子的な非決定性を自由意志の物理的な基盤と見なす立場に対する主要な批判点です。

この課題に対して、量子力学が単なるランダム性以上の、例えば脳内の微細な量子効果が非線形なカオス的システムを通して巨視的なレベルの意思決定に影響を与える、あるいは意識と観測過程の間に何らかの関連があるといった、より洗練されたモデルが提案されることもあります。また、哲学的な両立可能性論(Compatibilism)の立場からは、自由意志は決定論や非決定論といった物理的な予測可能性の問題ではなく、行為が主体自身の性格や願望、理性から生じるかどうかといった別の基準によって定義されるべきだ、という主張もなされます。量子力学の非決定性は、このような両立可能性論の枠組みにおいても、自由意志の可能性を論じる際の背景となる物理的世界像を提供することになります。

さらに、量子力学の非決定性が示唆する「可能性」の概念は、哲学における可能世界論や、選択に伴う結果の多様性といった議論とも関連を持ちます。私たちの選択が、決定された一つの未来を単に辿るのではなく、複数の可能な未来の中から現実化するプロセスであると捉えるならば、量子的な確率や非決定性は、この「可能性空間」の物理的な基盤を与えるものと解釈できるかもしれません。

結論:新たな物理学像の中での自由意志への探求

古典物理学が提供した厳密な予測可能性に基づく決定論的世界観は、自由意志の存在に対して強い哲学的挑戦を突きつけました。しかし、量子力学の登場は、物理的な世界のあり方が根源的に非決定論的である可能性を示唆し、決定論による自由意志否定の論理的な必然性を崩しました。

量子的な非決定性は、自由意志論における「代替可能性」の概念を物理的に支える可能性を提供しましたが、それが単なるランダム性であるならば、自由意志に不可欠な「制御」や「主体性」とはどのように結びつくのか、という新たな哲学的課題を提起しています。量子力学が自由意志に直接的な物理的基盤を与えるかどうかについては、物理学と哲学の双方においていまだ活発な議論が続けられています。

物理的な予測可能性の概念が古典論から量子論へと変遷したことは、単に科学的な世界像を更新しただけでなく、自由意志という古くて新しい哲学的問いを、現代物理学の知見を踏まえて再考することを私たちに迫っています。量子力学は、自由意志の存在を物理的に決定づけるものではないかもしれませんが、自由意志が根を下ろす可能性のある物理的世界の姿について、これまでとは異なる新たな視点を提供していると言えるでしょう。自由意志を巡る探求は、今後も物理学と哲学の対話を通して深化していくことでしょう。