決定論vs量子論

物理学における「状態」概念の変遷と自由意志論:決定論から不確定性へ

Tags: 自由意志, 決定論, 量子力学, 哲学, 物理学, 形而上学

はじめに:自由意志論における「状態」と「可能性」

自由意志の存在を巡る議論は、古来より哲学の中心的なテーマの一つであり続けています。特に、行為者が複数の可能な選択肢の中から自由に一つを選び取ることができる、という「代替的可能性(alternate possibilities)」の概念は、自由意志の直感的な理解において重要な要素とされてきました。しかし、この「可能性」が物理的な世界の記述とどのように整合するのか、あるいはしないのかは、常に大きな問いとして立ちはだかります。物理学が世界のあり方をどのように記述するかに応じて、自由意志を巡る哲学的議論の様相は変化してきました。本稿では、物理学における世界の「状態」という概念が、古典物理学から量子力学へと変遷する過程が、自由意志論における可能性の理解にどのような影響を与えたのかを考察いたします。

古典物理学における状態と決定論:可能性の否定?

古典物理学、特にニュートン力学において、物理システムの状態は非常に明確に定義されます。ある瞬間の粒子の正確な位置と運動量(または速度)が分かれば、その後のあらゆる瞬間の粒子の状態は、運動方程式(例えば$F=ma$)によって一意に決定されます。これは「ラプラスの悪魔」に象徴されるような、厳格な決定論的世界観を導きます。

この古典物理学における状態概念は、自由意志にとって挑戦的な意味合いを持ちます。なぜなら、もし宇宙全体のすべての粒子の初期状態が完全に分かれば、その後の宇宙の全ての出来事、人間の思考や行動を含む全ては、物理法則に従って事前に完全に決定されてしまうからです。この決定論的世界観の下では、ある瞬間に取りうる「代替的可能性」は存在しません。ある瞬間の状態から導かれる未来はただ一つであり、過去の物理的状態によって現在の物理的状態が決定されるため、行為者が文字通り異なる行動を選択できたはずだ、という主張は困難になります。

このような決定論と自由意志の間の緊張関係は、非両立可能性論(Incompatibilism)の立場から、自由意志は決定論と両立しない、と主張する根拠となります。もし古典物理学的な決定論が宇宙を支配しているならば、真の自由意志は存在しない、と結論づける論者も少なくありませんでした。

量子力学における状態と不確定性:新たな可能性の空間?

20世紀に入り、物理学の基礎的な枠組みは大きく変容しました。量子力学の登場です。量子力学における物理システムの状態は、古典物理学のような明確な一点ではなく、波動関数($\psi$)という数学的な対象によって記述されます。この波動関数は、ある粒子が特定の状態(例えば、特定の場所や運動量を持つ状態)で見出される確率に関する情報を含んでいます。

量子力学の最も特徴的な性質の一つは、「重ね合わせ(superposition)」です。粒子は、観測されるまでは複数の可能な状態が同時に存在しているかのような振る舞いをします。例えば、シュレーディンガーの猫の思考実験のように、猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせにあると記述されます。そして、系を観測した瞬間に、波動関数は特定の状態へと収縮(collapse)し、結果として一つの状態(例えば、猫が生きている)が確定します。

この過程は、一般的には決定論的ではありません。同じ初期状態(観測前の重ね合わせ状態)から出発しても、観測結果は確率的にしか予測できません。これは量子力学における本質的な非決定論性を示唆しており、不確定性原理(Heisenberg's uncertainty principle)とも関連が深いです。不確定性原理は、粒子の位置と運動量を同時に精密に知ることは原理的に不可能である、と述べます。

量子力学におけるこのような状態の記述と非決定論性は、自由意志論に新たな視点を提供しました。古典物理学のような一点の状態から未来が一意に決まるのではなく、量子状態は複数の可能なアウトカム(結果)の確率的な分布を含んでいます。観測や相互作用によって、これらの可能性の中から一つが実現する、という描像は、自由意志における「代替的可能性」の概念と親和性があるように見えるかもしれません。

量子力学の非決定論は自由意志を救済するか?

量子力学の非決定論性が自由意志の存在にとって肯定的な根拠となるか、という問いは、現代の物理学哲学および自由意志論における活発な議論の的となっています。

一部の論者は、量子力学の非決定論が、決定論的世界観の下で失われた自由意志の「可能性」を回復させると主張します。例えば、脳内の神経細胞の発火プロセスにおいて、微視的な量子効果(例えばイオンチャネルの開閉における確率的な振る舞い)が影響を与え、それがマクロな意思決定に非決定論的な要素をもたらす可能性が示唆されることがあります。リベット実験のような自由意志の神経科学的研究も、脳活動と意識的な意思決定のタイミングのずれを指摘しており、その根底に量子的な不確定性がある可能性も議論され得ます(ただし、この点の科学的証拠は非常に限定的であり、広く受け入れられている見解ではありません)。

しかし、多くの哲学者は、単なる物理的な非決定論やランダム性だけでは、自由意志を正当化するには不十分であると指摘します。自由意志による行為は、単なる偶然やランダムな出来事ではなく、行為者自身の理性や欲求、価値観に基づく「選択」であると理解されることが多いからです。もし脳内の量子効果が意思決定に影響を与えるとしても、それがランダムなプロセスであるならば、それは行為者自身がコントロールできない出来事であり、自由意志ではなく「偶然」と呼ぶべきではないか、という批判があります。非両立可能性論の中でも、決定論だけでなく、非決定論の下でも自由意志は存在しないとするハード非両立可能性論(Hard Incompatibilism)の立場は、この点を強調します。

また、「スケール問題」も重要な論点です。量子力学的な非決定性が顕著に現れるのは通常、原子や電子といった微視的なスケールです。脳のようなマクロなシステムにおいて、これらの微視的な非決定性が、意識的な意思決定のような巨視的なレベルのイベントにどのように影響を及ぼすのかは明らかではありません。デコヒーレンスなどの現象により、量子的な重ね合わせ状態はマクロな環境との相互作用によって急速に失われ、古典的な確率分布へと収束していくと考えられています。このため、脳における量子効果が自由意志に必要な非決定性をもたらす可能性は低い、と考える研究者も多いです。

さらに、量子力学の主要な解釈(例えば、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など)によっても、非決定性の意味合いや、それが自由意志に与える示唆は異なってきます。コペンハーゲン解釈は測定による状態収縮に本質的な非決定性を見ますが、多世界解釈は観測可能なアウトカムの全てが並行する宇宙で実現すると考え、宇宙全体としては決定論的であると解釈されることもあります。ボーム解釈(隠れた変数理論の一種)に至っては、量子論的な現象の背後に決定論的な力学が存在すると仮定します。どの解釈を採用するかによって、物理的な「可能性の空間」の存在論的な位置づけや、それが自由意志とどのように関わるかの議論は複雑化します。

結論:変化する物理的世界観と自由意志論の課題

物理学における「状態」概念の変遷は、自由意志論における「可能性」の理解に深く関わってきました。古典物理学が描く一点で決定される状態は、代替的可能性の概念を困難にしました。一方、量子力学が導入した確率的な波動関数と非決定的な測定プロセスは、新たな可能性の空間を示唆し、自由意志の議論に新たな要素をもたらしました。

しかし、量子力学の非決定論がそのまま自由意志の根拠となるわけではありません。物理的なランダム性と行為者の「選択」との哲学的区別、微視的な量子効果がマクロな脳活動に与える影響(スケール問題)、そして量子力学の解釈を巡る未解決の問題など、多くの課題が残されています。

物理学が世界の根源的な記述を提供し続ける限り、自由意志を巡る哲学的探求は、常に最新の物理的世界観と対話していく必要があります。古典物理学の時代には決定論との両立可能性が問われたように、量子力学の時代においては、その非決定性の性質、可能性の存在論的位置づけ、そして物理法則がどのように行為者の主体性や選択と結びつくのか、といった新たな問いが投げかけられています。これらの問いに対する明確な答えはまだ得られていませんが、物理学と哲学の境界領域における探求は、人間の存在と宇宙におけるその位置づけについての理解を深める上で、今後も不可欠な営みであり続けるでしょう。