決定論、量子力学、そして道徳的責任:自由意志論における新たな問い
導入:自由意志と道徳的責任の古典的な関係
哲学において、自由意志の問題は、行為者が自らの行為に対して道徳的な責任を負いうるか、という問いと深く結びついております。一般的に、行為者が道徳的責任を負うためには、その行為が強制や偶然によってではなく、行為者自身のコントロールのもとで行われた「自由な」行為である必要があると考えられてきました。
古典的な決定論的世界観のもとでは、全ての出来事は先行する原因によって一意的に決定されており、未来は過去によって完全に固定されているとされます。このような世界観では、個々の行為もまた物理法則に従った因果連鎖の不可避的な結果に過ぎないことになります。この場合、行為者が「別様に行為することができた」という直感や、自らの行為に対する「源泉」であるという感覚は、単なる幻想に過ぎないのではないか、という疑念が生じます。もし行為が物理法則の必然的な帰結であれば、行為者はその行為に対して真に道徳的な責任を負いうるのか、という深刻な問題が提起されるのです。これが、決定論が道徳的責任に与える古典的な挑戦です。
しかし、20世紀初頭に登場した量子力学は、物理世界の記述に非決定論的な要素を導入しました。この非決定性は、古典的な決定論に対する物理学からの反論として捉えられ、自由意志、ひいては道徳的責任の問題に新たな視座をもたらす可能性が議論されるようになりました。本稿では、決定論的世界観における道徳的責任の課題を確認した上で、量子力学が導入する非決定性が、この道徳的責任の問題にどのような影響を与えうるのか、そしてそれが自由意志論にどのような新たな問いを投げかけるのかを考察してまいります。
決定論的世界観における道徳的責任の課題
決定論の立場では、宇宙の初期状態と物理法則が与えられれば、その後の全ての状態は一意的に決定されます。もし人間の思考や行動を含む全ての物理的イベントがこの因果連鎖に従うならば、我々の「選択」や「行為」もまた、先行する原因によって完全に決定されていることになります。
このような観点から、ハード決定論(Hard Determinism)の立場は、決定論は自由意志と両立しない(非両立可能性:Incompatibilism)とし、決定論が真であるならば自由意志は存在せず、したがって道徳的責任も成立しないと主張します。道徳的責任の基礎としてしばしば考えられる「代替的可能性原理」(Principle of Alternative Possibilities: PAP)は、「ある行為者がその行為に対して道徳的責任を負うのは、彼が別様に行為することができた場合に限る」と述べます。決定論が真であるならば、行為者は別様に行為することは物理的に不可能であるため、PAPのもとでは道徳的責任は成立しない、ということになるのです。
一方、両立可能性論(Compatibilism)は、決定論と自由意志は両立可能であると主張します。両立可能性論者は、自由意志を「外部からの強制や障害がない状態での、行為者自身の欲望や信念に基づく行為」などと再定義することで、決定論的な世界でも自由意志は存在しうると論じます。そして、このような自由意志の概念に基づけば、道徳的責任もまた決定論的な世界において成立すると考えます。例えば、行為が行為者自身の性格や理由づけのメカニズムから生じている限り、たとえそれが決定されていたとしても、行為者は責任を負うという考え方があります。
決定論的世界観のもとで、いかに道徳的責任を基礎づけるか、あるいは道徳的責任の概念自体を再考するかは、長きにわたり哲学における重要な課題でした。しかし、この議論に物理学からの新たな要素が加わったのが、量子力学の出現です。
量子力学が導入する非決定論
量子力学は、ミクロな物理現象の記述において、古典物理学とは根本的に異なる描像を提供します。特に、特定の量子イベント、例えば放射性原子の崩壊や光子の検出などは、事前にその発生時刻や結果を一意的に予測することができません。量子力学の標準的な解釈(コペンハーゲン解釈など)では、これらの事象は本質的に確率的であり、非決定論的であると解釈されます。系の状態はシュレーディンガー方程式に従って決定論的に時間発展しますが、測定を行うとその状態は確率的に収縮(collapse)し、特定の測定結果が得られます。この測定結果の予測不可能性が、量子力学の非決定性の根源と見なされます。
この物理的な非決定性の発見は、古典的な決定論への挑戦として、自由意志論者、特にリバタリアニズム(Libertarianism)の立場から注目されました。リバタリアニズムは非両立可能性論の一種であり、自由意志は決定論と両立しないだけでなく、自由意志は実際に存在すると主張する立場です。リバタリアンの中には、量子力学の非決定性が、まさに自由意志に必要な「別様に行為する可能性」や、行為が単なる物理的な因果連鎖の帰結ではないことの根拠を提供してくれるのではないか、と考える者も現れました。もし脳内での意思決定プロセスに量子的非決定性が影響を及ぼすならば、その決定は完全に決定されておらず、真に「開かれた未来」の中から選ばれたものである、という議論が可能になるかもしれません。
量子非決定論は道徳的責任をどう変えるか?
量子力学の非決定性が道徳的責任の問題にどのように関わるか、という問いは、複数の側面から考察される必要があります。
まず、もし量子力学的な非決定性が脳内の意思決定プロセスに影響を与え、それによって行為が完全に決定されないとしても、それはそのまま道徳的責任の基礎となる自由意志に結びつくのでしょうか。懐疑的な立場からは、量子的な非決定性は単なるランダム性(偶然)に過ぎず、行為者の意図や理性とは無関係に発生すると指摘されます。例えば、脳内のニューロン発火が量子的ゆらぎによって確率的に生じたとしても、その発火が「私自身の選択」として責任を負いうる根拠となるのか、という疑問が生じます。道徳的責任を負うためには、行為が行為者自身のコントロールのもとにある、つまり行為者がその行為の「源泉」である必要があります。単なるランダムな出来事は、むしろ行為者のコントロールが及ばない領域であり、責任を免れる理由となりえます。自由意志論における「非決定論的困窮」(Indeterministic Woe)と呼ばれる議論は、行為が決定されていなければランダムになり、どちらにしても自由や責任は失われる、というジレンマを指摘します。
この課題に対する応答として、量子効果が脳の機能に影響を与える具体的なメカニズムについての科学的な探求が進められています。例えば、微視的な量子的非決定性が、ニューロンやシナプスといったより巨視的なレベルでの振る舞いにどのように「増幅」され、最終的な意思決定や行動に影響を与えるのか(スケール問題)、あるいは意識的な意思決定プロセスにおいて量子的重ね合わせ状態からの収縮が何らかの役割を果たす可能性などが議論されることがあります。しかし、これらの議論は未だ憶測の域を出ないものが多く、脳の機能における量子効果の役割は現代科学の最前線でも解明されていない、極めて挑戦的なテーマです。
哲学的な側面では、量子力学的な非決定性を自由意志や道徳的責任の文脈でどう解釈するかが問われます。 * リバタリアニズム: 量子非決定性を、行為者が別様に行為できた可能性の根拠として捉え、真の創造性や選択の余地を物理的に保証するものと見なす可能性があります。ただし、ランダム性の問題を克服し、いかに行為者のコントロールを位置づけるかが課題となります。行為者の「エージェンシー」(Agency)が量子的な事象をどのように統合するのか、といった概念的な問いが生じます。 * 両立可能性論: 量子力学の非決定性は、決定論的な世界観を覆すものであり、両立可能性論の議論の必要性を減じるかもしれませんが、同時に彼らの自由意志の定義(例えば、理性への応答能力など)が、確率的な世界でも依然として適用可能であることを主張するかもしれません。彼らは、責任が成立するために必要なのは因果的な決定性ではなく、行為者の特定の内的状態や能力であると論じることが可能です。
また、量子力学の主要な解釈(コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など)によって、物理的な非決定性の捉え方が異なることも、自由意志論における議論を複雑にしています。例えば、多世界解釈では量子状態は決定論的に発展し続け、全ての可能性が並行世界で実現されるため、単一の「選択」や「行為」に対する責任という概念が古典的な意味合いを失う可能性も指摘され得ます。
結論:物理法則の理解の深化が哲学に投げかける継続的な課題
決定論、量子力学、そして道徳的責任の関係を探ることは、自由意志論における最も核心的かつ挑戦的な問いの一つです。古典的な決定論は道徳的責任の可能性に深刻な疑義を投げかけましたが、量子力学の登場は、物理世界に非決定論的な要素が存在する可能性を示唆し、自由意志の物理的基盤を提供するかもしれないという希望を与えました。
しかし、量子力学的な非決定性がそのまま道徳的責任を基礎づける「自由意志」となるわけではありません。単なるランダム性は、むしろ行為者のコントロールを伴わないため、責任を免れる理由となりえます。量子非決定論が自由意志や道徳的責任と結びつくためには、物理的な非決定性が、行為者の意図や理性、あるいは自己といった哲学的概念とどのように関係しうるのか、という概念的なギャップを埋める必要があります。
現代の哲学と物理学は、脳科学の知見も取り入れながら、この複雑な関係性の解明に取り組んでいます。脳の機能における量子効果の役割、非決定性が意識や意図にどのように関わるのか、そして道徳的責任という概念が物理法則の記述の仕方によってどのように影響を受けるのか。これらの問いは未だ完全に解明されておらず、学際的な探求が不可欠です。
物理法則の理解が深化するにつれて、自由意志や道徳的責任といった古来からの哲学的問題は新たな様相を呈します。決定論vs量子論という対比は、単なる物理学の枠を超え、我々が自らをいかに理解し、いかに責任ある存在として世界に関わるのかという、根源的な問いを問い直すことを迫っているのです。この探求は継続されるべき重要な学術的営みであると言えるでしょう。