決定論vs量子論

量子力学の相補性原理は決定論と自由意志の対立を解消する哲学的鍵となりうるか?

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はじめに:決定論と自由意志、そして量子力学からの問い

哲学における最も根源的な問いの一つに、「自由意志は存在するのか」という問題があります。この問いは古来より、世界のあり方が究極的には決定されているとする「決定論」的世界観との間で緊張関係にありました。古典物理学、特にニュートン力学によって世界の因果的な繋がりが精密に記述されるにつれ、未来は現在の状態から完全に予測可能であるかのように見え、人間の行為もまた物理法則に従う機械的なプロセスの結果に過ぎないのではないかという疑問が深まりました。

このような決定論的な枠組みの中で、私たちが自身の行為を自由に選択しているという日常的な感覚や、それに伴う道徳的責任の概念をいかに位置づけるか、あるいは放棄すべきかという議論が長く続けられています。

20世紀に入り、物理学の世界に革命をもたらしたのが量子力学です。量子現象は、古典物理学の描像とは異なり、根源的な予測不可能性や非決定性を含んでいることが示されました。この量子力学の出現は、硬直した決定論的世界観に揺さぶりをかけ、自由意志の問題に新たな光を当てる可能性を示唆しました。

量子力学の様々な側面の中でも、ニールス・ボーアによって提唱された「相補性原理(Complementarity Principle)」は、一見矛盾する二つの記述が、対象の全体像を理解する上で共に不可欠であるという洞察を提供します。本稿では、この相補性原理が、決定論と自由意志という哲学的な対立を理解するための新たな枠組みとなりうるかについて考察を進めます。

決定論的世界観と自由意志の伝統的な対立

決定論とは、宇宙のあらゆる出来事が、過去の状態と物理法則によって一意に決定されるという考え方です。もし宇宙が決定論的であるならば、ある時点での宇宙全体の状態が完全に分かれば、未来のあらゆる状態も原理的には完全に予測できることになります。このような世界では、人間の意識や行為も物理的な脳の状態によって完全に決定されるプロセスに過ぎず、文字通りの意味での自由な選択の余地はないのではないかと考えられます。

この決定論と自由意志が両立しないと考える立場は「非両立可能性(Incompatibilism)」と呼ばれます。非両立論者の中には、決定論が真であるならば自由意志は存在しないとする「ハード非決定論(Hard Determinism)」や、決定論が偽であり自由意志は存在するとする「リバタリアニズム(Libertarianism)」などがあります。一方で、「両立可能性(Compatibilism)」の立場では、決定論が真であっても自由意志は存在しうる、と主張します。例えば、自由意志を「外部からの強制や障害がなく、自身の欲求や意図に基づいて行為できること」と定義することで、物理的な決定論と両立させようと試みます。

古典物理学が支配的であった時代、世界の基底にある物理法則は決定論的であるという見方が強固でした。これにより、自由意志を擁護する側は、両立可能性の立場を取るか、あるいは物理的な因果律とは異なる領域に自由意志の根拠を求める必要に迫られました。

量子力学の非決定性と自由意志への期待

古典物理学に対する量子力学の最大の衝撃の一つは、ミクロな世界の記述における根源的な非決定性の導入でした。例えば、電子が二重スリットを通過する際にどちらのスリットを通るか、放射性原子がいつ崩壊するかといった現象は、実験前のいかなる情報をもってしても確率的にしか予測できません。ハイゼンベルクの不確定性原理は、粒子の位置と運動量を同時に正確に決定することは原理的に不可能であることを示しました。

これらの量子力学の非決定性は、古典的な決定論的世界観を覆すものとして、自由意志論に携わる人々の注目を集めました。もし物理的な世界が根源的に非決定論的であるならば、人間の脳の働きを含む物理的なプロセスもまた完全に決定されているわけではなく、そこに自由意志が入り込む余地があるのではないか、という期待が生まれたのです。

しかし、量子力学の非決定性が直ちに自由意志を保証するわけではありません。量子力学的な記述における非決定性は、多くの解釈では本質的なランダム性として捉えられます。もし私たちの行為が単なるランダムな物理プロセスの結果であるとすれば、それは「自由な選択」というよりは「偶発的な出来事」に近く、責任や意図といった自由意志の重要な側面を説明できません。真の自由意志が単なるランダム性とは異なる何かであるとすれば、量子力学の非決定性が自由意志にどのように貢献するのか、あるいは貢献しうるのかという、新たな問いが生じます。

量子力学における相補性原理の概念

ここで、量子力学の相補性原理に目を向けます。相補性原理は、ミクロな量子現象を記述する際に、古典的な概念である「粒子」と「波動」のように、一見互いに排他的に思える二つの側面が、観測設定に応じて現れることを説明する原理です。例えば、電子は特定の実験条件下では粒子のように振る舞い、別の条件下では波のように振る舞います。これらの側面は同時に観測することはできませんが、対象の完全な記述のためにはどちらの側面も必要である、とニールス・ボーアは考えました。

相補性原理は、物理的な対象だけでなく、認知や言語、生物学などの他の領域にもその思想を拡張しうる普遍的な原理として捉えられることもあります。例えば、生命現象を物理化学的なプロセスとして記述する側面と、目的論的あるいは全体論的な側面として記述する側面は、それぞれ異なる有効性を持つ相補的な記述である、といったアナロジーが考えられます。

決定論と自由意志への相補性原理からの示唆

相補性原理の思想を、決定論と自由意志の問題に適用してみると、どのような洞察が得られるでしょうか。決定論的な記述と非決定論的な記述は、人間の行為や意思決定という複雑な現象を捉えるための、異なるレベルあるいは異なる側面からの記述であると考えることができないでしょうか。

  1. 異なるレベルでの記述の相補性: 人間の行為は、あるレベルでは神経細胞の活動や物理的な筋肉の動きといった、ある程度決定論的に記述可能な物理プロセスとして理解できます。しかし、より高次のレベル、例えば意図や信念、価値判断といった心的状態のレベルでは、必ずしも物理的な決定論に還元できない自由や創造性の側面が現れると考えることも可能です。相補性原理のアナロジーによれば、これらの異なるレベルからの記述は、それぞれが行為の特定の側面を捉えており、どちらか一方のみでは全体像を見失うかもしれません。

  2. 観測設定(分析の視点)による相補性: 量子力学において、粒子的な側面が現れるか波動的な側面が現れるかは、どのような実験装置(観測設定)を用いるかに依存します。同様に、人間の行為を分析する際に、厳密な因果関係を追跡する物理学的な視点(決定論的側面が顕著になる視点)と、行為主体の内的な選択や意図に焦点を当てる哲学・心理学的な視点(自由意志や非決定性が前景に出てくる視点)は、異なる「観測設定」に対応すると考えられます。これらの異なる視点から得られる記述は、それぞれが行為の異なる側面を捉えており、全体的な理解には両方が必要であるという考え方です。

  3. 両立可能性への新たな示唆: 相補性原理は、一見排他的な概念(粒子と波動)が同時に真であるのではなく、異なる状況や記述の枠組みにおいて有効である、ということを示します。これは、決定論と自由意志が文字通り同時に存在しうる(両立可能性)というよりは、人間の行為を理解する上で、決定論的な側面からの記述と、自由意志を前提とした記述が、それぞれ異なるレベルや視点から現象を捉えるために必要な、相補的な記述であるという可能性を示唆します。それは、行為の物理的な基盤を理解するためには決定論的な因果律が必要であり、行為主体の責任や意味を理解するためには自由意志を前提とした記述が必要である、といった考え方につながります。

哲学的議論と相補性原理の限界

相補性原理を決定論と自由意志の議論に適用する試みは、興味深い視点を提供しますが、いくつかの課題も伴います。

まず、物理的な相補性原理を哲学的な概念にそのまま適用することの正当性が問われます。物理現象における相補性は、実験的に検証可能な現象に基づいています。しかし、決定論と自由意志に関する相補的な理解が、同様の厳密さや検証可能性を持つとは限りません。

また、このアプローチが、決定論と自由意志の間の「実体的な」対立を本当に解消するのかという疑問もあります。相補的な記述が単に異なる側面を捉えているだけで、決定論が真であるか偽であるか、あるいは自由意志が物理的に可能であるかという存在論的な問いに対しては、直接的な答えを与えない可能性もあります。それは、両立可能性論が直面する「自由意志が単なる幻想ではないのか」という問いと同様の課題を抱えることになります。

さらに、量子力学の非決定性がマクロスケールでの人間の行動にどのように影響しうるかという「スケール問題」も依然として大きな課題です。脳内の量子効果が、巨視的な意思決定に影響を与えるという明確な証拠は、現時点では確立されていません。

結論:相補性原理が提供する新たな理解の枠組み

決定論と自由意志の問題は、人間の存在論的な位置づけに関わる深い問いであり、その解決は容易ではありません。量子力学の非決定性は、古典的な決定論を揺るがしましたが、それ自体が自由意志を直接的に基礎づけるものではありませんでした。

本稿で考察した相補性原理からの視点は、決定論と自由意志という対立するかに見える概念を、人間の行為という複雑な現象を理解するための異なる、しかし補い合う記述の枠組みとして捉え直す可能性を示唆します。物理的な因果律に基づく決定論的な記述と、意図や選択を重視する自由意志を前提とした記述は、それぞれが行為の異なる側面を捉えており、全体像の理解には両方が必要である、と考えることで、伝統的な対立を乗り越えるための一つの手がかりを得られるかもしれません。

もちろん、この相補的な理解が、自由意志の存在論的な地位や、決定論が真である場合の責任の問題といった、哲学的な難問全てに答えるわけではありません。しかし、単に決定論か自由意志かの二者択一に留まらず、異なるレベルや視点からの記述の豊かさを認識することを通じて、この古くて新しい問題をより深く考察するための、有効な枠組みを提供してくれると言えるでしょう。今後の物理学、神経科学、そして哲学の進展によって、この相補的な視点がさらに深化していくことが期待されます。