物理学における確率概念の変遷と自由意志論:古典論的確率 vs 量子論的確率
導入:物理学における確率概念と自由意志の問い
「決定論vs量子論」という私たちのサイトでは、物理学の世界観が自由意志の可能性にどのような光を当てるのかを探求しております。本稿では、この探求の一環として、物理学における「確率」という概念に焦点を当てます。特に、古典物理学が扱う確率と量子力学が導入する確率との間に存在する根本的な違いが、自由意志を巡る哲学的議論にどのような新たな示唆をもたらすのかを考察いたします。
古典的な決定論的世界観においては、未来の状態は現在の状態と物理法則によって完全に決定されると考えられます。このような枠組みの中で確率が用いられる場合、それは系の詳細な初期状態に関する私たちの「知識の欠如」を補うための道具に過ぎないと見なされることが一般的です。例えば、統計力学における気体分子の運動や、サイコロを振ったときの出目の予測などがこれに該当します。そこには、根源的な偶然性や非決定性は存在しないと想定されます。
一方、量子力学の標準的な解釈、例えばコペンハーゲン解釈によれば、微視的な系の振る舞いは本質的に確率的であるとされます。特定の観測を行った際にどの結果が得られるかは、確率的にしか予測できません。この量子的な確率が、古典的な確率とは異なり、世界の側にある根源的な非決定性を示唆していると解釈される場合、決定論的世界観は根底から揺るがされることになります。
この物理学における確率概念の変遷は、自由意志論に対して深い問いを投げかけます。もし世界が根本的に確率的であるならば、それは自由意志が働くための「選択の余地」や「開かれた未来」を提供するのでしょうか。あるいは、単なる物理的なランダム性が自由意志とは異なる形で私たちの行為に影響を与えるだけなのでしょうか。本稿では、これらの問いを探求いたします。
古典物理学における確率:知識の欠如と決定論の背景
古典物理学、特にニュートン力学に基づく決定論的世界観においては、系の未来の状態は、その現在の状態(例えば、すべての粒子の位置と運動量)と、それらを支配する物理法則が与えられれば、完全に予測可能であるとされます。これは「ラプラスの悪魔」という思考実験によって象徴的に表現されます。宇宙内のあらゆる粒子について、その位置と運動量を全て知り、それを解析する能力を持つ知性が存在するならば、過去も未来も完全に決定されていることが分かる、という考え方です。
このような決定論的な枠組みにおいて確率が用いられるのは、私たちがそのようなラプラスの悪魔のような完全な知識を持っていないためです。例えば、多数の分子からなる気体の振る舞いを扱う統計力学では、個々の分子の運動を追跡することは現実的に不可能です。そこで、分子の速度分布などを確率的に記述し、気体のマクロな性質(温度や圧力など)を予測します。サイコロの例も同様です。サイコロの初期位置、初速、回転、空気抵抗、台の摩擦などを完全に知ることができれば、次にどの目が出るかは原理的には予測可能です。私たちが確率を用いるのは、これらの初期条件を正確に把握できないからです。
したがって、古典物理学における確率は、あくまで私たちの認識論的な制約、すなわち「知識の欠如」に起因するものです。世界そのものが確率的に振る舞っているわけではなく、私たちの不完全な情報に基づいて未来を予測するために確率論という数学的な道具を用いているに過ぎません。根底には厳密な決定論が存在するという理解です。
この観点から見れば、古典物理学の枠組みは自由意志の可能性を困難にします。私たちの脳を含め、宇宙全体の物理的な状態が決定論的に進化するとすれば、私たちの思考や行動もまた、過去の物理的な状態によって決定されることになります。確率論は、私たちの行動が予測不能である理由を説明するかもしれませんが、それは根源的な意味での「選択」や「自由な行為の開始」を基礎づけるものではありません。予測不能性は、単に決定された経路に関する情報の不完全性から生じるに過ぎないのです。これは、自由意志が真に可能であるためには非決定論が必要であると考える非両立可能性論者にとっては、決定論的世界観が自由意志と両立しない決定的な理由となります。
量子力学における確率:根源的な非決定性と多可能性
量子力学の登場は、物理学における確率概念に根本的な変化をもたらしました。量子力学は、微視的な系、例えば電子や光子のような素粒子の振る舞いを記述するための理論です。量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式は、系の状態を記述する波動関数(または状態ベクトル)の時間発展を決定論的に記述します。しかし、この波動関数自体は、観測可能な物理量(例えば粒子の位置や運動量)の値を直接与えるものではなく、特定の値を「観測する確率」を与えるものと解釈されるのが標準的です。
例えば、二重スリット実験における電子の振る舞いは、量子力学における確率の性質をよく示しています。個々の電子がどちらのスリットを通るか、そして最終的にスクリーンのどこに到達するかは、観測前には確率的にしか予測できません。波動関数は、異なる経路や結果がそれぞれの確率をもって「重ね合わされている」状態を示唆します。そして、観測が行われると、その重ね合わせが崩壊し、特定の確率で一つの結果が実現すると考えられます(波動関数の収縮)。
コペンハーゲン解釈のような標準的な解釈においては、この量子的な確率は、私たちの知識の欠如から生じるものではなく、自然そのものが本質的に確率的に振る舞うこと、つまり「根源的な非決定性」を反映していると見なされます。特定の観測が行われた際にどの結果が現れるかは、事前の物理状態だけからは原理的に決定できない、真の偶然性が存在するという考え方です。これは、古典物理学における確率概念とは決定的に異なります。古典論では決定論を前提とした上で確率を用いますが、量子論では確率そのものが自然の基本的な性質の一部であると解釈されるのです。
この量子力学における根源的な非決定性は、自由意志論に新たな地平を切り開く可能性を示唆します。もし物理的な世界が根本的に確率的であるならば、未来は一意に決定されているのではなく、複数の可能性が開かれていることになります。これは、自由意志が働くために必要だとされる「代替可能性」(alternative possibilities)や「選択の余地」の物理的な基盤となりうるかもしれません。私たちの脳内における微視的な量子的プロセスが、マクロな思考や行動に影響を与えるならば、その確率的な性質が、古典的な決定論では不可能な種類の非決定性をもたらし、自由意志の可能性を物理的に基礎づけるのではないか、という議論が提起されます。
量子論的確率と自由意志:可能性と課題
量子力学が示唆する根源的な非決定性が、自由意志論における「代替可能性」や「開かれた未来」の物理的基盤を提供しうるという考え方は魅力的です。もし、私たちの行動が、過去の物理状態によって一意に決定されるのではなく、脳内の量子的プロセスの確率的な結果によって複数の可能性の中から選ばれるのであれば、それは自由意志の存在を肯定する一助となるかもしれません。非両立可能性論者、特に自由意志論者(Libertarianism)は、自由意志が決定論と両立しないと考え、物理的な非決定性を自由意志の物理的基盤として探求することがあります。量子力学の非決定性は、彼らにとって希望の光となる可能性があります。
しかし、量子的な確率が自由意志を直接的に基礎づけるかという点には、いくつかの重要な課題が存在します。
第一に、「確率的な出来事」と「自由な行為」との間のギャップです。単なるランダムな出来事が私たちの行動に影響を与えるとしても、それは自由意志による行為とは異なります。自由意志による行為は、私たちの意図、理由、欲求に基づいて行われる「コントロールされた」行為であると一般的に理解されています。もし量子的な非決定性が私たちの行動にランダム性をもたらすだけならば、それは自由な行為というよりは、制御不能な衝動や偶発的な出来事に近いものとなります。自由意志を肯定するためには、このランダム性をいかに自己の「コントロール」と結びつけるのかという、新たな説明が必要となります。
第二に、「スケール問題」です。量子効果は主に微視的なスケールで顕著に現れます。私たちの脳は、膨大な数のニューロンから構成されるマクロな系です。微視的な量子的確率が、どのようにして脳全体のマクロな活動、特に自由意志に関連すると考えられる意思決定プロセスに影響を与えるのか、そのメカニズムはまだ明らかではありません。量子デコヒーレンスのような現象は、量子的な重ね合わせや相関が、マクロな環境との相互作用によって非常に速やかに失われることを示唆しており、脳のような温かく湿った環境で量子的効果が長時間維持され、マクロなレベルの意思決定に本質的な影響を与える可能性は、科学的にまだ十分に確立されていません。量子脳仮説のような試みはありますが、広く受け入れられている理論には至っていません。
第三に、量子力学の解釈問題です。量子的な確率は根源的であるという解釈(コペンハーゲン解釈など)は有力ですが、唯一の解釈ではありません。例えば、多世界解釈では波動関数は収縮せず、すべての可能な結果が異なる平行宇宙で実現すると考えます。この場合、私たちの宇宙で観測される結果は確率的に見えますが、宇宙全体としては決定論的であるという見方も可能です。また、ボーム解釈のような隠れた変数理論は、量子力学の確率性を私たちの知識不足に起因するものとし、根底に決定論的なメカニズムが存在すると仮定します。もしこのような解釈が正しいとすれば、量子力学の確率性が自由意志を基礎づける根源的な非決定性を示すという議論は成り立たなくなります。
哲学的議論の展望
物理学における確率概念の変遷は、自由意志論における古典的な対立(決定論と非決定論、両立可能性と非両立可能性)に新たな複雑性を加えています。
量子力学の根源的な確率性を肯定する立場からは、非両立可能性論者、特に自由意志論者は、量子的な非決定性が自由意志の物理的な土台を提供すると主張する可能性があります。しかし、前述のように、ランダム性とコントロールの問題、およびスケール問題に対する説得力のある説明が求められます。例えば、ロジャー・ペンローズ卿のような研究者は、脳の微細構造における量子的プロセス(例:微小管)が意識や非計算可能な思考に影響を与える可能性を示唆していますが、これは仮説の域を出ません。
一方、両立可能性論者は、自由意志は物理的な決定論(あるいは確率的な物理法則)と両立すると主張します。彼らにとって、物理学における確率概念が古典的か量子的かは、自由意志の定義や存在にとって本質的な問題ではないかもしれません。自由意志を、特定の種類の物理状態やプロセス(例えば、特定の複雑性や情報処理能力を持つ脳の活動)において現れる属性、あるいは責任を帰属させるに足る行為者の能力と定義するならば、それが決定論的な法則に従うか、確率的な法則に従うかは二次的な問題となる可能性があります。しかし、量子的な確率が真に根源的な非決定性をもたらすならば、両立可能性論者も、彼らの理論枠組みの中にこの新たな非決定性をどのように位置づけるかという課題に直面することになります。例えば、確率的な法則に従う行為も、ある意味で「自己の性質から必然的に(確率的に)生じる」と見なせるか、といった議論が必要になるでしょう。
また、物理学における確率概念の解釈自体が未解決であることも、自由意志論における議論を複雑にしています。量子力学のどの解釈を採用するかによって、物理的世界が本質的に決定論的か非決定論的かについての前提が変わり、それが自由意志論への示唆も変化させます。例えば、多世界解釈を受け入れる場合、私たちは常に「あらゆる可能な行為」を行っている多くの自己(あるいはそのコピー)のうちの一つに過ぎない、ということになり、私たちの「選択」という日常的な感覚は異なる意味合いを持つことになるかもしれません。
結論
物理学における確率概念は、古典物理学の「知識の欠如を補う道具」から、量子力学の「自然そのものが持つ根源的な非決定性」を示唆する可能性のある概念へと大きく変遷しました。この変遷は、自由意志を巡る哲学的議論に新たな視点をもたらしています。
量子力学が示唆する根源的な確率は、決定論的世界観の下では考えられなかった未来の「多可能性」を開く物理的な基盤となりうる可能性を秘めています。これは、自由意志が働くための物理的な「余地」が存在するのではないか、という期待を抱かせます。
しかし同時に、この量子的な確率を自由意志の根拠とする試みは、ランダムな出来事と意図的な行為の違い、微視的な量子効果がマクロな脳機能にどう影響するかというスケール問題、そして量子力学自体の解釈問題といった、困難な課題に直面しています。
したがって、量子力学における確率概念の進展は、自由意志論に対する答えを直接的に与えるものではありませんが、従来の決定論的な物理学観に基づいた議論を再考させ、自由意志の可能性を新たな角度から探求するための豊かな思索の素材を提供していると言えます。物理学と哲学の間の対話は、この根源的な問いに対する私たちの理解を深めていく上で、今後も不可欠な役割を果たすでしょう。